こんにちは、アスナロです。
わたしは会社を定年退職した60代男性で、現在第二の人生を楽しんでいます。
わたしぐらいの年齢になると人生経験も少しは豊富になり、みなさまの参考になる情報を提供できるかもしれません。
つたない文章でまことに恐縮ですが、年甲斐もなくブログをやっています。
昭和40年(1965年)当時の国鉄阪和線快速電車の停車駅は?
みなさんは、昭和40年(1965年)当時の国鉄阪和線快速電車(東和歌山→天王寺)の停車駅をご存じでしょうか?
ヨメ「今と一緒ではないの?」
アスナロ「ファイナルアンサー?(笑)」
ヨメ「(汗)」
令和の今、JR阪和線快速電車は、朝夕のラッシュ時以外は、大阪環状線との直通運転が基本になっています。
和歌山を出発した快速は、途中の熊取までは各駅(紀伊中ノ島、六十谷、紀伊、山中渓、和泉鳥取、和泉砂川、新家、長滝、日根野)に停車し、熊取からやっと快速運転となります。
熊取を出ると、東岸和田、和泉府中、鳳、三国ヶ丘、堺市、天王寺(18番線)に停車し、天王寺から大坂環状線に入ります。
天王寺を出ると、新今宮、大正、弁天町、西九条、福島、大阪の順に停車し、さらに大阪環状線(東側)を各駅停車で半周して、天王寺駅12番線に戻ります。ここが真の終点なのです。
では、昭和40年(1965年)当時の国鉄阪和線快速電車の停車駅はどうだったでしょうか?
国鉄阪和線70系快速電車東和歌山発天王寺行き(東和歌山→天王寺)
東和歌山(現和歌山)を発車した70系快速は、紀ノ川を渡り、和泉山脈を越えて、大阪府に入るまでノンストップ運転でした。東和歌山駅から20.8㎞走り、やっと和泉砂川駅に停車するのです。和泉砂川駅は、戦前、砂川遊園や砂川奇勝で有名な観光地でした。
和泉砂川を出ると、次は熊取に停車します。
令和の今、特急も停車する日根野には止まりませんでした。
熊取駅も、昭和38年以前は、快速は停車しませんでしたが、熊取町内に京都大学原子炉研究所ができたので、昭和39年から快速が停車するようになったのです。
熊取を出ると、次は和泉府中です。
丘陵地域の東佐野を通過し、田畑が広がる和泉橋本も快調に通過します。
近木川(こぎがわ)を渡ると、快速電車は右に大きくカーブしながら、緩やかな坂を上って行きます。このあたりは、盛り土になっていて、まもなく水間鉄道(南海貝塚↔水間観音)の単線をまたぎます。
長い盛り土の坂を下ると、日紡(現ユニチカ)貝塚のある東貝塚を通過します。この駅には待避線があるので、ポイントを通過する音が心地いいです。
続いて、東岸和田(待避線あり)も通過です。昭和62年以降は快速停車駅となりましたが、昭和40年時点では快速は止まりませんでした。
次の駅は久米田です。令和の今は、途中に下松駅がありますが、この駅は昭和59年開業なので、この時点の下松駅周辺は、田畑しかありませんでした。
久米田を定刻に通過して、しばらく走ると、牛滝川と松尾川の短い鉄橋を渡り、まもなく和泉府中に停車します。熊取から12.1㎞をノンストップで走破したことになります。
アスナロ「この頃の快速は、速かったなあ~!」
ヨメ「熊取からノンストップだったからね。」」
和泉府中を出た快速は、信太山を通過し、北信太に向かいます。
北信太を通過すると、ラジオ放送の高い電波塔が2本、少し離れた場所に立っています。
昭和40年の今、駅の周辺だけ家が建っている状況で、駅間は一面田んぼや畑です。その田んぼや畑の中に、ラジオの電波塔がポツンと建っています。ですから随分長い間、電車からその電波塔が見えるのです。
その電波塔は令和になる今の時代も健在です。でも田んぼや畑は住宅などの建物に変わってしまい、電車の窓からは電波塔はほとんど見えなくなってしまいました。
電車の宝石箱のような鳳車庫
車両の連結器近くに乗ると、何度も上下左右に激しく車体を揺らしながら快調に走ってきた快速電車が減速を始め、まもなく右手に鳳車庫が見えてきます。
車庫には様々な旧型国電が停まっています。
どんよりした朱色の車両が多いけれど、中にはこげ茶色の車両もあります。スマートな70系4両編成もたくさん停まっています。
70系は通常快速か直行で運用されるのですが、朝夕などは各駅停車での運用もあるみたいで、白い各駅停車のヘッドマークをつけた70系も停まっています。
戦前から使っている阪和電鉄時代の車両もたくさん残っています。鳳車庫はまさに車両の宝石箱なのです。
鳳に到着しました。
快速のような優等列車は4番線に到着するので、右側の扉が開きます。
東羽衣方面は、橋を渡って5番線です。5番線には、1両か2両編成の、古い朱色の電車が停まっています。
隣の3番線には、各駅停車天王寺行が停まっています。
快速は終点天王寺まで停まらないので、津久野、上野芝、百舌鳥、三国ヶ丘、金岡、浅香、杉本町、我孫子町、長居、鶴ケ丘、南田辺、美章園に行く人は、各駅停車に乗り換えます。
鳳→天王寺
約1分の停車の間に多くの乗客が乗り込みました。快速電車は満員です。
駅員が発車のアナウンスをします。
「快速天王寺行き、まもなく発車します。ご乗車の方はお急ぎください~。」
「次は終点天王寺まで停まりません~。」
車掌が力強く笛を吹き、ドアが閉まります。
快速電車天王寺行はゆっくり走り出します。
左側の5番線には、東羽衣行きの朱色の電車が見えます。今日は2両編成です。
快速電車はうなりながら徐々に加速します。
しばらく行くと、左手に大鳥大社が見えます。
さらに加速し最高速度に達した頃、津久野を通過します。
津久野駅周辺は土地が低く、駅は高架になっています。
快速は最高速度の95kmで走ります。速いです!
次の上野芝も通過です。
令和の今、上野芝駅は待避線(1980年完成)があり、通過列車はホームのない中央の線路を走りますが、昭和40年の頃は待避線のないホーム2面の普通の駅でした。
続いて左にカーブしながら百舌鳥を通過します。
子供の頃、百、舌、鳥のどこまでが『も』で、どこからが『ず』なのか、ずっと悩んできた『もず駅』です。
この駅は仁徳天皇陵(大山古墳)の最寄り駅です。
昭和天皇が崩御された昭和64年1月7日土曜日、半ドンで仕事帰りのアスナロは、記帳のために百舌鳥駅で下車し仁徳天皇陵に行ったのを覚えています。
物心がついた頃から昭和で、昭和の時代にどっぷり浸かりながら生きてきたアスナロは、いつか昭和が終わることを頭では理解していましたが、実際に今日で昭和が終わることになり、昭和最後の日に何か記念に残ることをしようと考えたのでした。
ヨメ「私の名前も記帳してくれてありがとう!」
ムスコ(長男)「生後10か月のオレの名前も記帳してくれてありがとう!」
アスナロ「どういたしまして。」
ムスコ(次男)「生まれる前で、オレの名前は記帳なし。残念だーっ!」
ムスメ「同じく、残念だわーっ!」
さて快速電車に話を戻します。
さらに走ると線路の両サイドが高くなってきます。
この辺りは低い丘陵地帯で、阪和線は地面を掘って線路を通しているのです。阪和線の上をまたぐ南海高野線のガードをくぐると三国ヶ丘を通過します。
令和の今は、三国ヶ丘には快速が停車しますが、昭和40年当時は各駅停車しか止まらない小さな駅でした。
両サイドの壁が徐々に低くなってくると、まもなく金岡(現堺市)を通過します。
しばらく走って、左に大きくカーブし、短い鉄橋を渡ると浅香通過です。
浅香のホームの先端は大きな川に突き出ており、長い鉄橋を渡ります。大和川鉄橋です。
鉄橋を渡り終えると、右側にもう1本線路が出てきて3本になります。
快速電車は一番左側の線路を走ります。
一番右側の線路は下り東和歌山行きの線路です。
では真ん中の線路は何なのでしょうか?
昭和40年のこの時点では子供のアスナロはその理由がわかりませんでしたが、後年理由がわかりました。
今ではもう存在しませんが、当時(あるいはもう少し前)天王寺発杉本町行きという各駅停車がありました。
杉本町で終点になった電車は、この真ん中の線を利用して折り返し、天王寺方面行きのホーム(2番線)に入線するのです。ですから快速電車などの優等列車は、ホーム左側の1番線を通過するのです。
当時、杉本町から国鉄関西本線八尾駅まで、関西本線貨物支線(通称阪和貨物線)があり、多くの貨物列車や団体専用列車が運転されていました。昭和40年から2年間ほどは、特急あすか号(東和歌山⇔名古屋)もこの線路を通っていました。
アスナロの小学校の卒業旅行は伊勢でしたが、高速道路が未整備だった当時、伊勢への修学旅行は団体列車で行くのが普通でした。
その日朝早く、阪和線東佐野駅上り天王寺方面のホームに、アスナロたち小学生の団体がいました。和歌山方面から本日乗る列車の屋根から徐々に見えてきます。やがて列車の顔が全部見えました。
「ディーゼルカーだ!」
その列車は大好きなキハ58(あるいは28)で、『急行きのくに号』に使用している当時阪和線では最高級の列車なのでした。
いつもは、『急行きのくに号』として、小さな東佐野駅など見向きもしないかのような猛スピードで通過するのですが、本日は違います。運転士は慎重に制動を効かせながら東佐野駅までの下り坂を降りてきます。
東佐野駅に急行型気動車キハが停車しました。
夢のようです。
キハ58(28)に乗るには、4歳で白浜に行った時以来人生2回目です。
心臓をバクバク言わせながら、列車に乗り込みます。
上等なクロスシートが並んでいる車内に入り、うれしさは頂点に達します。
「これから楽しい修学旅行が始まる!それも大好きなディーゼルカーで!!!」
アスナロの長い人生において、5本の指に入るくらいうれしい瞬間でした。
話が脱線してしまいました。
快速電車の話に戻りますね。
最高速度で快調に走る快速電車は、我孫子町、長居(待避線あり)、鶴ケ丘を通過し、そして南田辺を過ぎると高架になります。
いろいろな鉄道が、阪和線の高架をくぐります。
まず、南海平野線です。
この鉄道は、大阪市内の今池停車場から平野停車場までを結んでいた路面電車みたいな鉄道で、第一次世界大戦が始まった1914年から1980年まで運行されていました。
美章園を過ぎると、快速電車は速度を落とし始めます。
近鉄南大阪線(阿部野橋⇔吉野)の線路が下に見えてきます。
令和の今、近鉄南大阪線は阪和線の上をまたいでいますが、昭和40年当時、近鉄は地上を走っていました。
続いて見えてくるのは、関西本線(湊町⇔名古屋)です。
当時、関西本線は非電化で、ディーゼルカーが行きかうのをよく見ていました。
そして、大阪環状線の上を通ります。
小学2~3年だったアスナロは、阪和線に乗るたびに、父に、
「これは何線?」
「これは?」
といつも聞いていました。
最後に見える大阪環状線は一番先に覚えて、
「これは環状線やね!」と言うと、父がにこにこ笑っていたのを覚えています。
終点天王寺
快速電車はまもなく終点天王寺に到着します。
運転士は慎重に制動を効かせながら、ホーム直前の最後のポイントを右に進み、5番線(4番乗りば)に入線します。
快速電車は静かにホームにすべり込みます。
行き過ぎて車止めにぶつからないようにゆっくり進むのです。
昭和57年(1982年)1月、朝の通勤客で満員の区間快速(101系6両編成、乗客1400人)が所定の位置に停まれず、車止めに激突して多くの負傷者が出たことがあります。満員で慣性の法則が働いたうえ、見習い運転士への教官の指示遅れが原因だったそうです。最近は、自動列車停止装置(ATS)が設置されているので、このような事故は起きません。
「てんのうじ~、天王寺~、終点天王寺です~。」
東和歌山から長時間走ってきた70系快速電車4両編成は、ついに終点天王寺に到着したのでした。所要時間は52分でした。
右隣の2番線には、名古屋行き急行紀州5号が、1番線には新宮行き特急くろしお3号が停まっています。
改札口に向かってホームを歩き、ホームの端まで来た時、特急、急行、快速の優等列車そろい踏みを見ることができ、鉄道好きには堪らない風景でした。
時代は昭和半ば、古き良き時代の思い出です。
まとめ
昭和40年(1965年)当時の国鉄阪和線快速電車(東和歌山→天王寺)の停車駅は、東和歌山、和泉砂川、熊取、和泉府中、鳳、天王寺でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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