国鉄阪和線②~昭和43年の直行電車に乗ってみよう!東佐野駅→鳳駅

マニアックな趣味

こんにちは、アスナロです。
わたしは会社を定年退職した60代男性で、現在第二の人生を楽しんでいます。
わたしぐらいの年齢になると人生経験も少しは豊富になり、みなさまの参考になる情報を提供できるかもしれません。
つたない文章でまことに恐縮ですが、年甲斐もなくブログをやっています。

国鉄阪和線②~昭和43年の阪和線直行電車に乗ってみよう!東佐野駅→鳳駅

阪和線のことをあまり知らない方を対象に、さまざまな情報をお伝えします。
第2回の今回は、『昭和43年の阪和線直行電車に乗ってみよう!東佐野駅→鳳駅』をお話しますね。

昭和43年の阪和線~東佐野駅と直行電車

国鉄阪和線は、大阪の天王寺から東和歌山までの路線で全長61.3kmあります。東佐野駅は、そのほぼ中間点、天王寺から31.5kmのところにあります。
ひとつ和歌山側には熊取駅があり快速が停車します。東佐野駅には各駅停車か直行しか止まりません。

『直行』というのは、1時間に2本運行している優等列車です。
天王寺から東和歌山まで直通で結んでおり、東和歌山から東佐野を通って和泉府中までは各駅に停車、そこからは快速運転となり、途中鳳と堺市に停車、終着駅天王寺に至ります。

一方『快速』は、途中停車駅が和泉砂川、熊取、和泉府中、鳳のみで非常に速いのですが、当時1時間に1本しか運転していなかったため、もっぱら直行中心の運行体制でした。

阪和線東佐野駅上りホーム

さあ、突然ですが、時空を超えて、昭和43年の阪和線東佐野駅に行ってみましょう!本日乗車するのは直行電車です。

ヨメ「わたしも一緒に行く~!」
アスナロ「わっかりましたー。」

昭和43年の今、阪和線東佐野駅には日中直行電車しか停車しません。朝夕は各駅停車もありますが、日中は直行が30分置きに来るだけです。

先ほども言いましたが、直行は阪和線の優等列車で1時間に2本走っており、東和歌山(昭和43年10月和歌山に改称)発で、途中和泉府中までの各駅と、鳳、堺市に停車します。
直行に使われる70系と呼ばれる車両は、グリーンとクリームのツートンカラーのモダンな車両で、流線形の顔がかっこよく、遠くから近づいて来る時、架線橋の影が直行の顔の顎からサングラスみたいな全面ガラスに何本も飛ぶように流れて見え、とてもスピード感があります。

ここは東佐野駅です。
早速『硬券』と呼ばれる硬い切符を窓口で買って改札を通ります。構内に入り左右をよく確認してから遮断機のない線路を渡り、上り天王寺方面のホームへのスロープを上がります。
ホームのペンキのにおいがする長い木のベンチで待っていると、天王寺側踏切の警報機が鳴り遮断機が降ります。

ヨメ「直行が来たの?」
アスナロ「どれどれー。」

線路の近くまで出て見てみると、右手和歌山方面から列車の屋根が見えてきます。
東佐野駅は長い坂の中腹にあり、和歌山側にもう少し行くと坂の頂上に到達します。だから和歌山方面から来る列車は、まず屋根から見えてくるのです。海の彼方の船が上のほうから見えてくるように。

だんだん列車の顔が見えてきました。黒い厳つい顔だ…

ヨメ「貨物よー!」
アスナロ「残念ーっ!」

ピーーーー!
汽笛を鳴らしながら、EF52機関車に引かれた貨物は、トコトコ東佐野駅を通過していきます。
ガタンガタン…ガタガタガタガタ…ガタンガタン…ガタガタガタ…ガタン…ガタン…
車輪と車輪の間隔が狭い貨車が多いので、ガタガタガタ…と聞こえるのが貨物列車の特徴です。貨物列車は比較的ゆっくり走っていき、線路が緩く左にカーブしたところで車掌車の赤いテールランプが見えなくなります。

ヨメ「長い貨物だったね~。」
アスナロ「はい、47両もありましたー。」

長い編成の貨物列車が行ってしまうと、東佐野駅にはまた静寂が訪れます。車の少ない時代なのでめったに車は通りません。歩く人もほとんどいないので人の話し声も聞こえてきません。聞こえるのは空高く飛んでいるひばりのさえずりだけです。

遠くから電車の走る音が聞こえてきます。
「電車が来た?」
でも踏切は鳴りません。線路際まで出て左右を見ましたが、どちらからも一向に電車は来ないのです。

ヨメ「南海電車じゃないのー?」
アスナロ「おっしゃるとおりです!」

電車の音は阪和線ではなく南海線だったのです。
南海本線と阪和線の間は田んぼや畑が広がっており、音を遮る建物が少ないので、風向きによっては2km以上離れた海沿いを走る南海電車の音が阪和線まで聞こえてくることがあったのです。

踏切が鳴りました。今度は下り和歌山方面行き列車です。
遥かかなたのカーブから列車の顔が少しずつ見えてきます。赤とクリーム色の洒落た顔つきの列車です。

ヨメ「急行きのくに号よ!」
アスナロ「好きな列車だー!」

昭和43年の今、特急は滅多に走っておらず、南紀直通は急行がメインなのです。
キハ58気動車の急行きのくに号は、エンジンをふかせながら東佐野駅までの長い坂を懸命に登ってきます。そして東佐野駅を通過する頃には息絶え絶えの状況で、間寛平風に言えば『アヘアヘアヘ~』の状況で、坂の頂上を目指してゆっくりゆっくり大汗をかいているかのように登っていきます。

寛平「アヘアヘアヘ~。」
アスナロ「アヘアヘアヘ~。」

ブゥーーーーン!
エンジン全開です。

昭和38年、アスナロが4歳の時、和歌山県白浜温泉に行くのに、一旦天王寺に出て天王寺発の急行(当時準急)きのくに号に乗ったことがあります。当時から鉄道が大好きだったので窓から外を眺めて楽しんでいたら、突然父が
「ここどこかわかる?」と聞いてきました。
『どこか見覚えのある風景だなあ~』と思ってよく見ると、ちょうど東佐野駅を通過するところでした。

「わかったー」
「どこ?」にこにこしながら父が聞きます。
「ひがしさのー」
「よくわかったなあ~」
4歳の子供でも東佐野駅だとわかるほど、準急きのくに号はゆっくり坂を登っていたのです。今日のきのくに号と同じで、息絶え絶えの状態で走っていたのだと思います。
令和3年の現在では、気動車急行はなくなり、すべて馬力の強い電車になっているので、もう息絶え絶えで『アヘアヘアヘ~』と走る列車は永遠に来ないのです。

ブゥーーーーン!
そして、やっとなんとか坂を登り切った急行きのくに号は、列車の下の方から消えていき、視界から完全に見えなくなります。

しばらくの静寂の後、また踏切が鳴ります。
今度は上り天王寺行快速です。
東佐野駅の1つ和歌山寄りには熊取駅があり、昭和39年から快速も停車するようになっています。熊取を発車した快速は和泉府中まで停まらないので、坂道を転がるように猛スピードで東佐野駅を通過します。直行と同じ70系のモダンな車両で、赤く丸い快速のヘッドマークをつけています。

ファーーーーーン!
ガタン…ガタンガタン…ガタンガタン…ガタンガタン…ガタン~

ヨメ「速い!」
アスナロ「熊取はいいなあ。快速が停まって。」

いつか熊取に住んで、快速に乗りたいなあと思ったものです。

快速が通過して2分後、また踏切が鳴ります。
「今度こそ、直行電車天王寺行だ!」
直行は、下り坂を慎重にブレーキをかけながら降りてきます。ブレーキの効きの悪かった当時、所定の位置で止まれなくて行き過ぎてしまった直行電車を、アスナロは何度か目撃したことがあります。

今日は、無事所定の位置で停車し扉が開きます。

直行電車天王寺行に乗車する

直行は70系セミクロスシートの4両編成で、後ろから2両目に乗ります。熊取で快速に接続したので、比較的空いています。
70系はモダンな車両ですが、床は板張りで、令和の今の感覚ではレトロな電車そのものです。もちろんクーラーはついていません。
夏は窓を全開にして走っても暑く、駅に停まると線路の鉄さびがキラキラ空中を舞っているのが見え、その鉄さびが車内にも入ってくるのがわかります。それが目に入って痛い思いをしたこともあります。

70系は加速もブレーキの効きも悪く、駅に到着するかなり前からブレーキをかけなければ行き過ぎてしまいます。所定の位置に停まることができず、バックすることもたびたびあります。ですから各駅に停車する和泉府中までは、駅を出てゆっくり加速していき、やっとトップスピードになったと思ったら、最高速度で走るのはほんの一瞬で、まもなく減速を始めるような運転でした。

ヨメ「出発進行ー!」
アスナロ「この電車は直行天王寺行です。途中、和泉府中までの各駅と、鳳、堺市に止まりますー。」

東佐野を発車した直行電車は、長い坂を下って行き、ゆるく左にカーブしてから次の駅和泉橋本に到着します。ここはホームの向こう側に小学校がポツンとあるだけの田んぼと畑に囲まれた駅です。

和泉橋本を出ると、坂を下ってまもなく近木川の鉄橋を渡り右に大きく曲がりながら坂を登って行き、単線の水間鉄道をまたぎます。
大正15年全通の水間線のほうが阪和線より開通が早いので、水間線を越えるように盛り土をして線路が敷かれているのです。
たまに水間線の古い電車が走ってくるのが見えるのですが、共に本数が少ないので、めったに見ることができません。

長い坂を降りきったところが東洋の魔女ニチボーの東貝塚、続いて東岸和田に停車し、次は久米田です。昭和59年に下松駅が開業するまでは、東岸和田から久米田までの駅間が長く、直行電車は快調に飛ばしたものです。

ヨメ「速い!さすが直行電車!」
アスナロ「チョー気持ちいいー!」

時空を少し飛んで、昭和47年の快速電車とすれ違います。

ヨメ「設定に無理があるんじゃないの?」
アスナロ「すんまそ~ん。」(汗)

気を取り直して続きをどうぞ!

久米田を出ると、次は和泉府中。ここからは快速運転となり、鳳まで停まりません。途中の信太山、北信太、富木には朝夕の通勤時間帯以外は停車しないのです。

北信太を通過すると、ラジオ放送の高い電波塔が2本、少し離れた場所に立っています。昭和43年の今、駅の周辺だけ家が建っている状況で、駅間は一面田んぼや畑です。その田んぼや畑の中に、ラジオの電波塔がポツンと建っています。ですから随分長い間、電車からその電波塔が見えるのです。
その電波塔は令和になる今の時代も健在です。でも田んぼや畑は住宅などの建物に変わってしまい、電車の窓からは電波塔はほとんど見えなくなってしまいました。

電車の宝石箱のような鳳車庫

上下左右に激しく車体を揺らしながら快調に走ってきた直行電車が減速を始め、まもなく鳳車庫が見えてきます。
車庫には様々な旧型国電が停まっています。
どんよりした朱色の車両が多いけれど、中には黒色の車両もあります。スマートな70系4両編成もたくさん停まっています。70系は通常快速か直行で運用されるのですが、朝夕などは各駅停車での運用もあるみたいで、白い各駅停車のヘッドマークをつけた70系も停まっています。

昭和43年の今、各駅停車の日中の運転区間は以下の4種類です。

天王寺⇔鳳、天王寺⇔和泉府中、天王寺⇔東岸和田、天王寺⇔東貝塚。
快速と直行は、共に天王寺⇔東和歌山(現和歌山)。
紀勢本線直通の特急・急行は、天王寺⇔白浜口(現白浜)、天王寺⇔新宮、天王寺⇔名古屋。
なんと紀伊半島を一周して名古屋まで行く『特急くろしお』『急行紀州』みたいな列車もあったのです。

アスナロは、鳳の車庫を見るのが大好きです。
戦前から使っている車両もたくさん残っています。鳳車庫はまさに車両の宝石箱なのです。

鳳に到着しました。
直行のような優等列車は4番線に到着するので、右側の扉が開きます。
東羽衣方面は、橋を渡って5番線です。5番線には、1両か2両編成の、古い朱色の電車が停まっています。

おまけ~羽衣線『東羽衣→鳳』

昭和49年1月、中学3年生のアスナロは、私立高校の願書を持って東羽衣から鳳までこの電車に乗ったことがあります。
当時東羽衣駅は地上駅でホームは2つあり、ホームとホームの間に線路2本分のスペースがありました。戦時中にうち1本分の線路を供出したため、私が乗った頃は線路の跡地に古い枕木を積み上げてホームの代用とし、両サイドから電車に乗り降りできるようになっていました。

ヨメ「まだ戦争のきず跡が残っていたんだね~。」
アスナロ「はい、そうであります!」(敬礼)

東羽衣を発車した旧型電車はゆっくり田んぼの中を走り、最後に大きく左にカーブして鳳駅に到着します。営業キロわずか1.7km、乗車時間3分程度の単線の短い路線です。
現在の羽衣線は新しくできた国道を飛び越えるためほぼ全線が高架で、東羽衣駅も高架駅となっています。当時の地上駅の枕木ホームが懐かしく思い出されます。

今回は、時空を超えて、『昭和43年の阪和線直行電車に乗ってみよう!東佐野駅→鳳駅』についてお話しました。いかがでしたでしょうか?

この続き、『昭和43年の阪和線直行電車に乗ってみよう!鳳駅→天王寺駅』は、2022年1月8日に公開しました。是非ご覧くださいね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

あすなろぐ

こんにちは!
わたしは会社を定年退職した60代男性で、現在第二の人生を楽しんでいます。
現在マンション住まいで、ヨメ、ムスメ、ビーグル犬ランの4人で暮らしています。ほかに結婚で独立したムスコが2人います。
わたしぐらいの年齢になると人生経験も少しは豊富になり、みなさまの参考になる情報を提供できるかもしれません。『アラ還からの贈り物』、『マニアックな趣味』をテーマに記事を書いています。いっぱい写真を貼っているので、写真だけでもご覧くださいね。
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