こんにちは、アスナロです。
わたしは会社を定年退職した60代男性で、現在第二の人生を楽しんでいます。
わたしぐらいの年齢になると人生経験も少しは豊富になり、みなさまの参考になる情報を提供できるかもしれません。
つたない文章でまことに恐縮ですが、年甲斐もなくブログをやっています。
昭和60年の東京研修と昭和47年の国鉄福知山線~古き良き昭和時代
今回は、昭和60年の東京研修と昭和47年の国鉄福知山線についてお話します。古き良き昭和時代の雰囲気をお楽しみくださいね。
20歳代のアスナロと結婚前のヨメも登場しますよ。
京都駅でのしばしの別れ
昭和60年1月、アスナロは某都銀主催の外国為替研修への参加が決まります。期間は1か月間、東京開催です。
東京へ出発の日、付き合い始めていたCさんが、自宅のある高槻から新大阪駅まで見送りに来てくれました。
茶目っ気のあるアスナロは、こっそり次の京都駅までの切符と特急券を買い、改札口で別れようとするCさんに切符を手渡します。Cさんは感情をあまり出さない性格ですが、新幹線の切符を見て、びっくりしながらも内心うれしそうに見えました。
ふたり並んで自由席車両の一番前(出口付近)に座ります。
新大阪を発車したひかり号はぐんぐんスピードを上げていきます。
新大阪から京都まで、わずか16分。ほとんど会話をしないうちに、阪急電車との並走区間を過ぎ、大山崎地峡を通り過ぎたひかり号はまもなく減速を始めます。このときばかりは新幹線の速さを恨んだものです。
あっという間に京都駅に着きました。Cさんは私の手をきつく握りしめ新幹線を降りて行きます。
京都駅でひかり号の窓越しにしばしのお別れをしたCさんとはその後結婚し、結婚生活もまもなく35周年を迎えます。Cさんはいまや空気みたいな存在ですが、アスナロにとってはなくてはならない大切な女性です。
ヨメ「京都駅でのしばしの別れ…懐かしいお話ね~」
アスナロ「ふたりとも若かったな~」
東京外為研修
東京研修は、前半の2週間は本店で外為全般の講義です。
用語集、業務検定、実務経験などである程度外為の知識はあったもののまだまだ知識が不十分だったアスナロでしたが、この研修で先生に付いて体系立てて網羅的に外為の勉強ができたので、いままで不明だった箇所も含めよく理解できました。
講義の合間を見て、受講生全員で日産のおっぱま工場に見学に行きました。
『追浜』と書くので、読み方は『おいはま』かもしれませんが、少し東北なまりの都銀の引率担当者は、唾を飛ばしながら、
「おっぱま、おっぱま、…」
と言っていました。
研修の後半は、いよいよ実際に営業店に配属されて外為実務を行います。
私が配属されたのは東虎ノ門支店、いかにも東京らしい名前です。
外為課だけでも10名程度いて、営業時間中は皆とても忙しく活気があります。
外為課には新人の男性が二人いて、すぐに仲良しになりました。一人は東大卒、もう一人は私学だったと記憶していますが、二人とも何でもよく知っていて、いろいろ教えてもらいました。
男性の先輩にもよくしていただきました。若い時の大橋巨泉みたいな風貌の方でした。
巨泉さんは関西勤務の経験があり、休日にはよく温泉に行ったそうです。中でも兵庫県の福知山線沿いにある武田尾温泉がお気に入りで、私が
「武田尾温泉は知っているけど、まだ行ったことがないです。」
と言うと、
「武田尾はひなびた温泉で、ゆっくりできるから是非行ってみて。お勧めだよ」
ときれいな東京弁で言っていたのを今でも覚えています。
武田尾温泉と国鉄福知山線
中2の秋、昭和47年10月7日から8日にかけて兵庫県三田市の親戚のところに行く際、
福知山線のディーゼルカー(大阪16時08分発福知山行、三田17時17分着の429D列車)が途中の武田尾温泉駅にも停車したので、温泉の名前と場所はその時から知っていました。
当時は武庫川の蛇行に沿って景色のいいところを非電化の福知山線が走っていて、特に武田尾温泉付近はとてもいい景色だったのでよく覚えています。
酔っ払いの座り込み事件
アスナロがこの時のことを日付まで正確に覚えている理由は二つあります。
一つは、三田から帰りの福知山線でちょっとした事件があったからです。
三田駅で満員の昔ながらのこげ茶色の客車列車(おそらく福知山始発12時36分、三田14時47分発、終点大阪16時07分着の738列車)に乗り込んだアスナロは、車両の奥へ奥へと人込みをかき分け入って行ったところ、ちょうど車両の真ん中あたりで、通路に新聞紙を敷いてあぐらをかき一升瓶をラッパ飲みしている酔っ払いが一人、管(くだ)を巻いているのに遭遇しました。
「おらおらおらー!○×△□…じゃ~!ボケ~!」
何を言っているのかわかりませんが、不満でもあるらしく大声で喚き散らすので、みんな怖がってその人に近寄りません。だから超満員の車両なのに、車両中央部で座り込んでいる酔っ払いの周辺だけポッカリ穴が空いているのです。
その列車は各駅停車で、駅に停まるたびに乗客が乗ってきて中ほどに詰めようとするのですが、酔っ払いに近い人は怖いので、いくら押されても踏ん張って酔っ払いに近づこうとしません。満員度合いもだんだん限界になってきて、たぶん武田尾温泉駅あたりに停車した時、ホームにまだ乗客が何人か残っているのに乗れなくなってしまいました。
ホームにいる人が、私たちの車両の中ほどにポッカリ空いたところを指差して、
「すみませ~ん!満員で乗れないからもっと中に詰めてもらえませんか~!?」
と大声でお願いするのですが、酔っ払いが暴れていて怖いので誰も詰めようとしません。
「ちょっとー!、聞こえませんかー!?そこ余裕があるじゃないですかー!私たち乗れないんですよー!詰めてくださいよー!」
と懇願します。
車内の通路にあぐらをかいて座っている酔っ払いは、窓の外からはまったく見えません。
「頼みますよー!ちょっと詰めたら乗れるのにー!」
ホームの人たちも必死です。
「これに乗れなかったら、1時間半も待たないといけないんだよー!」
最後は、半泣き状態です。
そして、ついにホームに何人か積み残したまま、ディーゼル機関車に引かれた客車列車はゆっくり動き出します。
「あーあ!ちっきしょー!なんでやねん!!」
最後に絶叫をホームに残し、大阪行き客車列車は出発するのでした。
ヨメ「ホームの人、超かわいそう~」
アスナロ「マンガに出てくるような酔っ払いでした~(汗)」
ジャコビニ流星群
アスナロがこの時のことを日付まで正確に覚えている理由の二つ目は、
昭和47年10月8日から9日未明にかけてジャコビニ流星群の観測条件が最高になり流星雨が見られると予想されていたので、どうしても世紀の流星雨を見たくて、父にお願いして日付が変わった午前1時頃、視界が開けた近くのコンビナートまで、眠い目を擦りながら車で見に行ったからです。
結果的には、予想に反して流星雨は現れずとてもがっかりしたのですが、このジャコビニ流星群という名称は、少年アスナロの心に深く刻まれ一生忘れないものになっています。
ヨメ「ユーミンの曲にもあるね!」
アスナロ「ジャコビニ彗星の日です~」
以上、2つの理由により、日付まで正確に記憶しているのです。
巨泉先輩に、
「是非行ってみて!」
と言われてから37年ほど経っていますが、武田尾温泉に行く機会はなく未だ実現していません。
新婚家庭でいただいた納豆ごはん
また、もう一人の男性の先輩にもよくしていただきました。
ある日何人かで飲み会に行って夜も遅くなりました。その先輩Yさんは新婚ほやほやで、千葉県船橋市に住んでいました。とても気さくな方で、
「今夜うちにおいで。泊まっていくといいよ」
と言ってくれたのです。
アスナロは、二次会で時間も遅くなっており、Y先輩が新婚だと知っていたので遠慮しましたが、
「妻もオープンな性格だから気にしなくていいよ。」
と言っていただき、泊めていただくことにしました。
深夜、家にお邪魔して、奥さまにご挨拶して、お茶漬けか何かいただき、すぐに布団を敷いてもらって寝ました。
翌朝、朝ごはんをご馳走になりました。
納豆が出ましたが、もともと納豆は大好きなので美味しくいただきました。
それから何年か経って、Yさんから年賀状をいただきました。そこには次のように書いてました。
「あの時、朝食で納豆を出したけど、アスナロ君は関西出身なので納豆は嫌いだったのではないですか?悪いことをしました。妻も気にしています。その節はごめんなさい。」
こちらのほうこそ、深夜新婚家庭に押しかけるという非常識なことをしてしまって大変恐縮しているのに、納豆ぐらいで気にかけていただくYさんと奥さまの細やかな気遣い、心のやさしさがよくわかるエピソードです。
Yさんとは今でも年賀状やメールの交換をしていますが、あれ以来一度もお会いしていません。是非ともお会いして、37年前の優しさに改めてお礼を言いたいと思っています。
ヨメ「ヨメの私からもお礼を言います。ありがとうございました!」
アスナロ「いつかお会いして直接お礼を言いたいです。」
女子会マシンガントークで撃沈
東虎ノ門支店では、外為課のお姉さん方にも仲良くしていただきました。
仕事が終わってから女子会に混ぜてもらい、銀行の近くの甘党の店で餡蜜を食べたりしました。
「えーっ!女子会なのにアスナロさんも誘うのー?」
という方もグループにいましたが、会を仕切っているサザエさんに出てくる花沢さんみたいな方の鶴の一声で私の参加も決まります。
甘党の店では、どうしても『アスナロ君に質問するコーナー~!』みたいになってきます。
私は女子会マシンガントークに銃撃され、
「好きなタイプは~?」
「この中で誰がタイプ~?」
「今付き合っている人はいるの~?」
など、根ほり葉ほり聞かれたような気がします。
ヨメ「好きなタイプは~?」
アスナロ「…(汗)」
そんな災難も経験しましたが、
『東京では仕事帰りにこんな洒落た店で美味しいものを食べるんだなあ』と、
とても感激したのを覚えています。
東京は私の勤務するところとは全く違っていて、何もかも上品で洗練された街でした。
このようにアフターファイブでは東京生活をエンジョイしていましたが、昼間の研修では真剣に外為実務の習得に取り組んだ結果、私の外為の実力は飛躍的に向上します。後に国際部門に引き抜かれ、外為オンライン構築やマーケット部門で力を発揮することになるのですが、東京研修はこれから始まる私の長い金融機関人生の基礎を築いてくれた大変有意義な研修でした。
今回は、昭和60年の東京研修と昭和47年の国鉄福知山線についてお話しました。古き良き昭和時代の雰囲気をお楽しみいただけましたでしょうか?
最後までお読みいただきありがとうございました。
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